なんだか、日経に奇妙な記事が出ていました。「クラシックの世界に過度に『物質化した』された演奏への反省が強まっている・・・」云々。まぁー先ずこの書出しの表現が変なのだが、記事内容はコンクールで優秀な成績の音楽家の演奏がつまらない、、、、と言われ続けて(いつの頃からだよ?)クラシック世界に危機感がある、のだそうだ。え?どういう意味?。
詳細検証中なのですが、端的に書きますと、いわゆるクラシック音楽界はコンクール等のステータスを元に、コンサート、レコード売上、プロモート、マスメディアその他商業的な価値として収益が上がる様にでかい権益のヒエラルキーを作ったのです。この体勢が出来たのは意外と最近で戦後くらい(?)の事で、むやみやたらとクラシックにステータスがくっついて来たのは実はそれほど昔からの事ではない、、、、そうです。
こういう体勢はヨーロッパの音楽(大変質は良い)を現代のメディア生活の中で維持・継承して行くには必要な事であったとは思います。メディアを通じて音を売るためには何だかの根拠が無ければやっていけません。何故なら、買って聴くまでどんな音だか分からないんだから。根拠を提示してやらないと誰も価値に気が付きませんね。スポーツは簡単なのですよね。記録とか勝ち負けがはっきりしているから。メディアを通すには分かり易く無いと誰も見向きをしてくれません。その基準をヒジョーに分かり易くするのがコンクールなわけです。
この記事読んで分け分からなくなって、考え込んでしまって、ようやく理解した事。要は、彼ら全員、クラシック音楽の価値がどういうシカケのうちに人々に認識されているか、また浸透したか、誰も気が付かない、またはシカケが浸透し過ぎて仕組み自体を忘れ去っていた、らしい。なんとオオボケ。
ためすけはクラシックでもトラッド好きでした。中世、バロックもので、それも地味なアルヒーフなんかの古楽器の音楽が好きだったのです。その世界にはコンクールはありません。純粋に音を楽しめます。自分で演奏しても楽しめます。良い悪いの区別はあっても勝ち負けはありません。勝ち負けはありませんが価値はあります。
本当は音楽はそういうものなのですが、それでは「価値がハッキリしねぇものは売れねえ」メディア偏重世界で売上は伸びません。
価値とステータスを提示した上で、あとは地道に啓蒙でもして行けばみんなハッピーになれたはずなのでしょうが、イージーにステータスだけを売り物にして収益のサイクルが出来上がってしまっていたわけです。
記事サブタイトルの「技巧より感動や喜びを」という文句も変です。「技巧に感動して」音楽家を持ち上げていたのはアンタらでしょ。その事によって成り立った世界が制度疲労を起しているのだと思いますが、クラシックをつまらなくしている原因はそっちが住んでいる世界そのもので、分かっているのだと思ったら実は忘れていた、って事らしい。何か反省しているみたいだが、何を反省しているのかその内容自体が矛盾していたりするのです。
文責:ためすけ後藤
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早速、件の新聞を取り出して読んでみましたが、コンクール→CD→音大と辿るなかで論旨が一貫しておらず、何を言いたいのか良く判らない記事です。こんなのを全国紙の文化欄に載せるなんてねえ。ためすけさんのウラ読みもスゴイと思うけど・・。
ウラ読みと言いますかタテ読みといいますか、まあ、現状について私なりの解釈という事で。。。